弘法大師が書かれた著書の中から、心に残る言葉をいくつかご紹介します



嫉妬(しっと)の心は彼我より生ず。 若し彼我を忘るれば即ち一如(いちにょ)を見る。一如を見れば、則ち平 等を得。平等を得れば則ち嫉妬を離る。嫉妬を離んぬれば即ち一切衆生の善を随喜す。随喜すれば則ち一切の法を謗(ぼう)せず。謗せざれは即ち信受す。信受すれば即ち奉行す。
嫉妬の心は相手と自分とが対立する事によって生まれる。 対立という考え方を捨てたら、 相手と自分は共に同じ真理、即ち平等である事が判る。 相手と自分が平等だという事が判れば、自然と嫉妬の心は起らない。 嫉妬が起らなければ、あらゆる人の善を喜ぶことができる。 喜ぶ心の前にはものを謗(そし)る心が起らない。 謗る心が無ければ何事も信じる事ができる。 謙虚な 「信」 を生活する時、 そこに善業 (善い行い) がおのずから生まれてくるのである。
金剛般若経開題







此の身は虚空より化生(けしょう)するに非ず。大地より変現するに非ず。 必ず四恩(しおん)の徳に資(よ)って是の五陰(ごいん)の躰を保つ。 
私たち一人一人のこの身体は、 天より降ってきたものでもなく、 また、 大地より湧(わ)き出たものでもない。 必ず、 父母、 国や国家の安定)、 大衆 (生きとし生けるものすべて)、 三宝 (仏、 法、 僧即ち宗教) の四つの恩に恵まれて生活しているのである。
教王経開題






各々(おのおの)我(わ)れは是(ぜ)なりと謂(い)い、並(なら)びに彼(か)れは非(ひ)なりと言(い)う
ともすれと人間は、自分が正しく、他人は間違っていると思いがちである
三教指帰






恒沙(ごうじゃ)の眷属(けんぞく)は鎮(つね)に自心(じしん)の宮(いえ)に住(じゅう)し無尽(むじん)の荘厳(しょうごん)は本初(ほんじょ)の殿(でん)に優遊(ゆうゆう)す 
あらゆる事柄は自分の心から現れた事であり、また尽きることのない素晴らしい世界は、自分の心の中から得られるのである
大日経開題




浄念(じょうねん)は蓮花(れんげ)に坐(ざ)し、垢心(くしん)は悪趣(あくしゅ)に沈(しず)む
心のきよらかな時は極楽浄土の蓮花の上にすわっているようであるし、心のよごれた時には地獄の針のむしろにすわっているようなものである。即ち、きよらかな心は、行動、言葉ともに正しくし、全てを潤滑に進めてゆくし、よこしまな心であれば全ての事が地獄におちるように悪い方向へむかってゆく。
宗秘論




一燈(いっとう) 一室 (いっしつ)に遍(へん)じて暗(あん)を除(のぞ)き 一 日(いちひ)一天(いってん)に遍(へん)じて黒(こく)を奪(うば)う
部屋に一つの灯があれば部屋中が明るくなる。一つの太陽が天にあがれば世界の暗を照らし一斉に明るくなる。即ち、自分自身の心の灯を照らせば悪事を行う心も除かれ、その一つ一つが網の目のように重なりあい、大きな太陽となって世界の悪もなくなるであろう。
大日経開題
玉は琢磨(たくま)に縁(よ)って照射(しょうしゃ)の器(うつわ)と成り、人は切瑳(せっさ)を待って穿犀(せんさい)の才(さい)を致(いた)す
宝石は原石のままでは光らず、磨くことによって美しい光を放つ。私達も目標を持って勉め励むことによって、その才能を発揮できるのである。
三教指帰(上)
苦(くる)しい哉(かな)末学(まつがく)、大虚(たいきよ)を小室(しようしつ)に逃(かく)し、鳴鐘(きょうどう)を掩耳(えんじ)に倫(ぬす)み、水を悪(にく)みて火を愛し、心を捨てて色(しき)を愛すること
哀れなことだが自分中心のいたらぬ者は、自分の回りだけがすべての世界だと感違いしている。例えば、おろかにも耳せんをして鈴を盗んだが、歩くたびにチリンチリンと鈴がなっているのに、他人には鈴を盗んだ事がわからないだろうと思うようなあやまちを犯す。澄んだ清らかな水のような、仏や人々の慈悲(苦しみを取り除き楽しさを与えてくれる)心を忘れ、欲望の炎でいつでも嫉妬やひがみや怒りに身をこがす。このような人は心の修行を忘れている。
十住心論第一
仏道(ぶつどう)遠(とお)からず廻心(えしん)即(すなわ)ちこれなり
悟りの道(たとえば全てのことの解決への道)は遠くはない、ただ違った観点からものごとを見て、心の持ち方、考え方の方向を変えさえすればいいのである。
一切経開題