八大高祖

真言宗の八大祖師



 本堂にかかげているのは、伝持八祖といい、真言密教の教えが日本に伝わるまでの歴史上、直接この世で真言密教を弘め、伝えたので伝持といいます。


 真言宗には八大祖師として伝持八祖のほかに付法八祖があります。


付法八祖(ふほうのはっそ)
付法八祖は正統系の系譜であります。大日如来、金剛薩埵、龍猛菩薩、龍智菩薩、金剛智三蔵、不空三蔵、恵果和尚、弘法大師です。大日如来より金剛薩埵が真言密教を受け、それを龍猛菩薩が受け継いで龍智菩薩が・・・と次々と伝えてきたので付法といいます。
 現在でも師僧より弟子に授かった教えは「血脈」といってその系譜にしるされます。真言宗は師から弟子への面授により教えを伝える「師資相承」を最も尊重しますので、大日如来より弘法大師へ伝わり、どのような系譜を経て現在の自分に伝わったかという「血脈」を師僧より授与されます。


伝持八祖(でんじのはっそ)
伝持八祖より大日如来、金剛薩埵は、直接この世で真言密教を流布しなったので除かれ、付法八祖より善無畏三蔵、一行阿闍梨の両祖師は弘法大師の直系ではないので除かれています。

伝持八祖



第一祖 龍猛菩薩(りゅうみょうぼさつ)
第一祖 龍猛菩薩
 インド大乗仏教を興隆させた方で、インド僧でインド名をナーガールジュナといいます。龍樹ともいいます。古来より八宗の祖、千部の論王といわれます。平安時代は倶舎・成実・律・法相・三論・華厳の南都六宗に天台・真言を加えた八宗であります。大乗仏教の祖として祀られます。


 伝持第三祖の不空三蔵の「金剛頂義決」によれば、南天竺(南インド)に封印された鉄塔がありました。釈尊が涅槃に入られた後、数百年間、この鉄塔をあけられる者はありませんでした。龍猛菩薩は、まず大日如来の真言を一心に唱え、それが成就して「大日経」を授かりました。次に塔の前に至って、7日間大日如来の真言を唱えながら塔の回りを巡りました。


 塔が開かれることを祈願し、7粒の白芥子で門の戸を打つと、たちまちに門は開かれたのであります。しかし、塔の中の諸神は入らせまいとしました。龍猛菩薩は心より懺悔し大誓願をおこして、やがて塔の中へ入ることを許されました。数日にわたり金剛頂経を読誦し、諸仏菩薩の指南によって金剛頂経を記憶して塔を出ました。その後に記憶した金剛頂経を書き写し、これが密教が世間に流布した最初であります。

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第二祖 龍智菩薩(りゅうちぼさつ)
第二祖 龍智菩薩
 インド僧でインド名をナーガボーディといいます。密教は大日如来が金剛薩埵に伝え、金剛薩埵は数百年を経て龍猛菩薩に伝え、龍猛菩薩はまた数百年を経て龍智菩薩に伝え、龍智菩薩はまた数百年して金剛智三蔵に伝えたとされています。密教祖師の中で伝記が不明瞭で古来より諸説があります。その中のひとつに7百歳であったが30歳ばかりの面立ちだったという伝記もあります。

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第三祖 金剛智三蔵(こんごうちさんぞう)
第三祖 金剛智三蔵
 南インド出身の僧でインド名をバジラボーディ(671-741)といいます。10歳の時ナーランダ寺で出家しを声明論を学び、15歳で西インドへ渡り諸事を学び、20歳になったときナーランダ寺へ戻り具足戒を受けました。31歳の時、南インドの龍智菩薩に仕え修行し密教の奥義を究めました。

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第四祖 不空三蔵(ふくうさんぞう)
第四祖 不空三蔵
 南インド生まれの僧でインド名をアモーガバジラ(705-774)といいます。訳して不空金剛とも呼ばれます。幼くして出家し父母を離れ、14歳の頃、金剛智三蔵がインドより布教に来た時に弟子入りしました。20歳の頃に具足戒受け、常に金剛智三蔵のそばを離れず修行し、インドのサンスクリット語、中国語に精通したといいます。共に中国に入って密教を広めます。そして、金剛智三蔵は仏の夢見により、不空三蔵の教えを授けるにたる器量であることを知り、密教の奥義を授けました。
 その後、金剛智三蔵は入滅しますが遺言によって再びインドに渡り、さまざまな密教経典を求めます。不空三蔵は龍智菩薩にまみえ、教えを求める志をのべて、密教の奥義である五部潅頂(伝法潅頂)を授かります。
 玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)鳩摩羅汁(くまらじゅう)真諦(しんだい)の3人と不空三蔵をあわせて四大翻訳家といいます。とりわけ不空三蔵は第四祖としてだけではなく、経典の翻訳、特に密教経典の翻訳に大いなる貢献しました。

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第五祖 善無畏三蔵(ぜんむいさんぞう)
第五祖 善無畏三蔵
 中インド摩掲陀国(マガタ国)の人で、インド名をシュバカラシンハ(673-735)といいます。善無畏は意味を訳して呼んだ名前です。釈尊の叔父である甘露飯王(かんろぼんおう)の末裔で、先祖が中インドより東インドに入り烏荼国(ウドラ国)を治めます。父である佛手王の後継者として13歳の時王位につきます。しかし、兄たちがその能力をねたみ争いとなりますが、王位を譲り仏道に入ります。
 諸国で修行した後、ナーランダ寺の達摩掬多(だるまきくた、ダルマグプタ)の弟子となり、密教の奥義をまたたく間に極め授かります。ある時、師より「汝は震旦(支那シナ、中国)に縁あり、今、行くべし」といわれ、中国の長安に至ります。大日経や虚空蔵求聞持法など多くの密教経典を漢訳します。

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第六祖 一行阿闍梨(いちぎょうあじゃり)
第六祖 一行阿闍梨
 中国、唐代の僧(683-727)で幼い頃より聡明であり、書物を1度読むと再び読み返すことがなく全て暗記したといわれます。天文学、暦学、陰陽などにも精通し、大衍暦(たいえんれき、太陰太陽暦の暦法)を編纂した天文学者でもあります。僧としては禅、律、天台の教えも極め、インドより善無畏三蔵が中国に来ると、すぐに弟子となり胎蔵界の奥義を受け、次いで金剛智三蔵に遇い金剛界の奥義を授かります。
 善無畏三蔵が「大日経(だいにちきょう)」を翻訳するにあたりその筆受者となり、また、その口伝を筆記し「大日経疏(だいにちきょうしょ)」20巻を著しました。この疏は大日経の注釈書として真言宗の貴重な書物となっています。諡(おくりな)を大慧禅師といいます。

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第七祖 恵果和尚(けいかかしょう)
第七祖 恵果和尚
 中国、唐代の僧(746-805)で9歳の頃より青龍寺で修学しました。不空三蔵について学び、潅頂を受けます。その時、投華した華が転法輪菩薩の上に落ちました。不空三蔵は「私が南天竺にて投華してこの尊を得ました。汝は私の後を継いで密教を弘めることは、まったく私と同じです」といわれました。弘法大師は多くの弟子の中から代表して碑文に、恵果和尚(けいかかしょう)とご自分の仏縁密接なることを述べるとともに、「和尚のもとを訪れると、はじめは心も体も空っぽであっても、誰もが満ちあふれて帰る」とその人柄を讃えてています。恵果和尚は不空三蔵の正嫡として、その教えにあずかるものは多くありました。法脈は中国、日本に栄え、その功績は偉大であります。正嫡として中国では義操が青龍寺の住職となり、日本は弘法大師空海が金剛界、胎蔵大法を受け真言宗の開祖となります。

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第八祖 弘法大師空海(こうぼうだいしくうかい)
第八祖 弘法大師
 弘法大師(空海 774-835)は宝亀5年(774)6月15日に讃岐国多度郡屏風浦(さぬきのくに たどのこおり びょうぶがうら)に生まれました。現在の香川県善通寺市で総本山善通寺となっています。


 平安時代の僧で、遣唐使の留学僧として、中国に渡り唐の都で真言密教の奥義を授かり、日本に帰って後は、真言宗を開きました。


 能筆家としても知られ、嵯峨天皇、橘逸勢と日本三筆の1人に数えられます。「弘法筆を選ばず」とか「弘法も筆の誤り」ということわざを耳にしたことがある方もおられるでしょう。ことわざになるほどの能書家で、書を重んじる中国でも「五筆和尚(ごひつわじょう)」と賞讃されています。真筆もいくつか残されていて、因みにページトップのロゴも弘法大師の真筆を集字したものです。


 承和2年(835)3月21日に高野山に御入定されました。しかし、今でもお大師様は高野山奥の院で、生きて私たちをお救い下さるという「入定信仰(にゅうじょうしんこう)」があり、多くの方が「南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)」の御宝号をお唱えし参詣しています。
本尊「弘法大師」も御参照ください

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資料
 八祖は萬福寺奉揭の八祖像
 密教大辞典 縮刷版 法蔵館
 望月仏教大辞典