弘法大師

萬福寺 弘法大師像 正面

真言宗の開祖(774-835)で讃岐国多度郡屏風ヶ浦(現在の香川県善通寺市)に生まれ、父は佐伯直田公(さえきあたいたぎみ)、母は阿刀氏出身であります。宝亀5年(774)に生まれ、お名前を真魚(まお)様といいました。幼い頃より神童と貴ばれ、15歳で都に上り母方叔父の阿刀大足から論語などを修学し、18歳で大学明経科に入学します。しかし、心を満たすものはなく、これ以上続けても得るものはなく、また未来にも望みもないと退学してしまします。それから大和国石淵寺の勤操大徳に遇い、虚空蔵求聞持法を受け、阿波の大瀧嶽や土佐室戸岬など山野で修行を始めます。




延暦12年(793)20歳で私度僧でありますが、勤操大徳に従って出家得度し、名を教海とし後に如空と改め、最後に空海とします。さまざまな場所で修学修行しますが、ある時、霊験があり大和国久米寺で「大毘盧遮那神変加持経」即ち「大日経」を手にします。しかし、完全に理解することができず、また、それを教えてくれる師も日本にはいませんでした。そこで唐(中国)に渡り、素晴らしい師に教えを請うために、延暦23年(803)31歳で正式に出家得度の許しを得、また入唐留学僧の勅許を受け、遣唐使に従って出発します。この時、遣唐使船4隻のうち、第1船に弘法大師、第2船には日本天台宗の開祖最澄上人もおられました。最終的にはこの2船だけが中国へたどり着き、他の2船は遭難します。暴風雨に遭った船団の第1船は南に流され、福州赤岸鎮に漂着します。上陸をなかなか許されなかったため、大師は遣唐使の代わりに上表を書し、達筆名文であったので、文書を貴ぶ福州の長官も感心し上陸を許可され、唐の都長安へと向かいます。

萬福寺 弘法大師像 側面
延暦24年(805)唐では西明寺に滞在し、いろいろなお寺で研鑽を重ねます。その年5月、いよいよ真言正統の青龍寺第七祖恵果和尚にまみえます。遇うや否や、和尚は旧知の仲のように喜び「私は先頃よりあなたが来るのを知って、待ち遠しく思っていました。今日、こうして遇えたことが大変嬉しい、大変嬉しい。私のいのちも、そう永くはありません。しかし、密教の奥義を授けるにふさわしい人がいなかった。さあ速く準備をして奥義を授ける儀式に臨みなさい」といわれました。6月から8月の短期間ではありましたが、伝法阿闍梨の潅頂儀式を授かり、金剛胎蔵両部曼荼羅、聖教、道具、法物などを受けました。ときに恵果和尚60歳、大師は32歳でありました。この潅頂の儀式で投華した華が大日如来の上に落ちたので「遍照金剛」の名前を戴いたので「南無大師遍照金剛」の御宝号をお唱えします。和尚は密教の奥義を授けおわった12月15日に入滅します。唐に滞在中、インド僧の般若三蔵(はんにゃさんぞう)や牟尼室利三蔵(むにしりさんぞう)から梵語(インドの言葉)を詳しく習得したり、不空三蔵の弟子曇貞から悉曇(しったん、梵字書法など)を伝授されます。


大同元年(806)10月、遣唐使高階眞人遠成(たかしなまひとたかなり)の船に便乗して、無事帰国し、福岡県太宰府の観世音寺に滞在します。本来20年の留学期間を2年ほどで帰国したのですから大罪であります。しかし、はやく密教の教えを日本に伝えたいとその思いと持ち帰った経典などを記載した「御請来目録」を朝廷に提出し、2年後京の都に上ります。先ずは和泉国槇尾山寺に滞在しますが、次いで京の高尾山寺(後の神護寺)に入ります。高尾山寺において、弘仁3年(812)11月15日金剛界の潅頂、12月14日胎蔵界の潅頂を開き、天台宗開祖伝教大師最澄やその弟子たちも含め、166名が入壇しました。大師は高尾山寺だけではなく、弘仁2年(811)山城国乙訓寺(やましろのくにおとくにでら)の別当(寺務を統括する長官)に任命されたり、他にも弘仁元年(810)奈良東大寺(ならとうだいじ)を任せられ、弘仁14年(823)には京都東寺(きょうととうじ 教王護国寺)を賜っています。
 弘仁7年(816)6月には紀伊国高野山を座禅修行の道場をして賜らんことを天皇に願いで、8月に勅許がおり、8年4月に弟子達を伴って高野山へ登り開創に着手し、七里四方を修禅の道場として結界しました。

萬福寺 弘法大師像 御顔
 承和2年(835)1月国家安泰、玉体安穏を祈願する「後七日御修法(ごしちにちみしゅほ)」を修したのち高野山に帰り、3月15日には弟子達を集め御遺告(ごゆいごう)を述べ、3月21日寅の刻、結跏趺坐(けっかふざ)して定印を結び、御年62歳にて御入定(ごにゅうじょう)されました。