高野山金剛流御詠歌をご紹介し、歌の意味をひもといていきます

高野山金剛流御詠歌

  高祖弘法大師 第1 2 3番

  高 野 山  第1 2 3番


  相互供養和讃

  解説内容は「高野山金剛流御詠歌和讃の解説」高野山金剛高総本部発行より

 高祖弘法大師 第1番 
ありがたや 高野の山の岩かげに 大師はいまだ おわしますなる
 この歌は、天台宗総本山、比叡山延暦寺座主であられた慈鎮和尚(じちんわじょう)の作です。弘法大師のご威徳を、他宗他門の大徳が詠ぜられたということは、弘法大師のみ教えが、真言宗のみにこだわらず、宗派を越えたものであるということが解ると同時に、弘法大師の信奉者がいかに多かったか、ということではないでしようか。
 伝説によますと、慈鎮和尚は比叡山の総鎮守である日吉権現様の夢告げによって、父母から生まれたこの身、このままで、生きながら仏様となる「即身成仏」の実例である弘法大師を、一目この眼で拝ませて項きたいと念願を起されました。そして、はるばる比叡山より高野山へと、老体を従僧にささえられながら登って参りました。慈鎮和尚は、高野山の奥之院灯籠堂で三日三夜の断食をして、弘法大師と一体となる入我々入の観念に入っておられました。ちょうど三日目。最後の座でありました。深夜の奥之院は静寂そのものです。すると、その時、灯明のあかりがひとしお輝きをまし、弘法大師御入定の時のそのままのお姿が、正面中央の二尺ばかりの高さにありありと影現されたのです。半眼に開いた慈鎮和尚の眼から感激の涙がハラハラとこぼれおちました。そしてその口からこぼれた和歌が、この歌であります。
大意としては「ああ ありがたい(弘法大師様はずっと昔に御人定されたにもかかわらず)高野山の奥之院には今だに弘法大師様がおられ、私達を見守りおすくい下さるんだなあ
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高祖弘法大師 第2番 
高野山 結ぶ庵に袖朽ちて 苔の下にぞ 有明の月
弘法大師様が高野山奥の院へ御入定されたのは、承和二年三月二十一日(八三五年)の事でありました。その後お大師様は、法印大和尚の位を腸り(八六四年)、さらに八十六年後に弘法大師の御称号を腸りました。そのお名前を下さったのは醍醐天皇でありますが、ある夜、一人の僧が天皇の夢枕に現われ、この歌をお詠みになられたと伝えられています。醍醐天皇の夢枕に、身にボロボロの袈裟衣をまとった一人の修行姿のお坊さんがたたれ「高野山、結ぶ庵に・・・」の和歌をお詠みになられたのであります。翌朝、さっそく側近の侍従にこの歌を示されると、「高野山」とあるのできっと紀の国の空海上人に違いないといわれました。
その頃、ちょうど時を同じくして、醍醐天皇に、空海上人へ「大師号」を腸わりたいと真言宗長者(真言宗の最高にも値する位)である高僧観賢僧正より上奏されていましたので天皇のみ心にも関心があった事だと思います。醍醐天皇は、さっそく大臣に命じて弘法大師の「大師号」と、桧皮色の袈裟衣をお授けになり、高野山へ参籠いたしました。弘法のおくり名は、今も生きて、法を弘め、私達をお救い続けて下さっている空海上人は、弘法利生の菩薩であるという意味から「弘法大師」の大師号が下賜されたのであります。
天皇の命によっておくり名と御衣をたずさえた勅使と高僧観賢僧正は高野山の奥之院へ参りました。勅使が奥之院の静寂の中で天皇よりの勅書を読みあげると、弘法大師の御厨の中より、「われ昔、さった薩たと遇い親しく悉く印明を伝う、無比の誓願を発して辺地異域に倍す。昼夜に万民をあわれんで普賢の悲願に住し、肉身に三昧を証して、慈氏(弥勒菩薩)の下生を待つ」という御声がありました。このお言葉の意味は、「私は、ありとあらゆる所に現れ、弥勒菩薩がこの世に生まれるその時まで万民を救いつづけますごという意味です。また、観賢僧正は、お授けいただいた袈裟衣を奉じて御衣替えを申しあげたという事であります。
それ以来、毎年一度旧の三月二十一日に、天皇より御下腸の御衣を替える儀式が現在も続いています。和歌の大意は、高野山の小さな庵の中で袈裟衣が破くれ朽ちながらも私達を救い続けておられる姿は、あたかも、夜を有咀の月が照らすごとく、世間を照らしているようだ。
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高祖弘法大師 第3番
阿字の子が 阿字の古里立ちいでて また立ちかえる 阿字の古里
阿字というのは梵字のア字であってこれは大日如来の種子(イニシャル)であります。阿字というのが大日如来(大宇宙)そのものです。この和歌の伝説は、お大師様の姉君の子で九歳の頃からお大師様のみ弟子となられた智泉法師という方がおられました。他の誰よりもお大師様をしたい、身の回りの一切のお世話もされ、年若くしてお大師様の十大弟子の一人に数えられており、お大師様も後継ぎと目される程の秀才であり、秘蔵の弟子としてかわいがられておりました。
しかし、智泉法師は三十七歳の若さで御遷化されたのであります。お大師様は、智泉法師の葬儀の文のなかに、「金剛の子智泉、影の如く随うて離れ股肱(ここう)の如く相従う、吾飢うれば汝も飢え、吾楽しめば亦汝も楽しむ云云」とあります。
お大師様の切々たる思いが伺えるのではないでしょうか。四十九日目の満中陰忌に十大弟子から一人欠けた九人の弟子をしたがえ、お大師様自らがお導師となり法要をお勤めになりました。その法要の終りにお堂の中のお灯明が一斉に輝きだし、一瞬パッと明るくなった時、白い蓮華の上にお座りになった智泉法師の姿が現われ、お大師様の方を向き合掌してほほえみながら消えたのであります。九人の弟子たちは驚きの声をあげたそのとき、お大師様は壇上に一人合掌してその目をとじ、唇からは、「阿字の子が阿字の古里・・・」の和歌がもれたのであります。
この和歌の大意は、「この大宇宙の根源、大日如来から命を頂き、この世に生まれ人生をおくってきたが、仏様から頂いた命は、また大宇宙の根源大日如来へとかえっていくのだなあ」
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高野山 第1番
たかの山 山にはあらではちすばの 花坂のぼる 今日のうれしさ
作者は、浄土宗の大徳、福田行誠上人であります。上人は、真言宗の雲照律師と共に、明治仏教界で二大巨星と去われた人で、明治維新の廃仏毀釈の中で敢然と立ち上がった近代日本仏教の恩人ともいえる方であります。その行誠上人が雲照律師より「秘密念仏」を伝承されましたが、雲照律師は「我々の本当の師は弘法大師ただ一人である」と言われましたので、この勝縁によって高野山に詣でる機会ができたのです。
上人は高僧であるのにもかかわらずたった二人の弟子を従えただけで三里の山坂を登ったのであります。老体を心配して弟子が勧める山籠もことわって、不動坂と呼ばれる坂にさしかかった頃弟子と一休みされました。もうひとがんばりで高野の山に登りつく喜びに胸をおどらせこの和歌を詠んだのであります。高野山というのはただ山坂を登ってゆく一歩一歩に喜びをかみしめを様子が今にも伝ってくるようです。
和歌の大意は、高野山というのは唯の山ではなく蓮の山である。この花坂を登ることのたとえようのないうれしさよ。
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高野山 第2番
わすれても 汲みやしつらむ旅人の 高野の奥の 玉川の水
玉川というのは、高野山奥之院に、一之橋、中之橋、御廟橋と三つの橋がかかっています。その三つ目の御廟橋のかかる川の事であります。この川には背中にハン点のあるハヤという小魚がいますが、これについて次のような伝説がのこっています。ある日、お大師様が高弟の真然大徳を伴って御入定の所をさがして一之橋から歩いておられました。
大徳を共にお大師様がこの玉川で一服して手を洗い、喉をうるおそうとしている時でした。二、三人のきこりが弁当をひろげ食べていましたが、お大師様は大徳に申しつけおかずの小魚をもらってくるようにいい、その小魚をもらいうけると川へ落とされると、その小魚が息をふきかえし泳ぎだしたのであります。それからこの川の小魚の背には串しざしのハン点のあとが残っているそうです。
この和歌は、弘法大師御作とされる歌でその大意は、けわしい山坂を登って高野山にやっと到着し、この奥之院までくると、この清らかな玉川がある。何はさておきこの玉川で手を洗い喉をうるおすであろう。この川の流れは、身体の垢をおとすだけでなく、心もあらい流す清流である。
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高野山 第3番
天が下 照らさぬ雲もなかりけり 高野の奥の 法のともしび
明治天皇の侍従であった高崎正風氏が高野山詣の際に作られた歌であります。当時の事ですから高野山へ登るのももちろん徒歩でした。いよいよ奥の院の参道を歩いてゆくと、その両側にたち並ぶ諸国諸大名の墓、各宗の祖師高僧や、名士名人の碑から・所せましとたち並ぶ庶民の墓など弘法大師を慕う人々ばかりであり、また、灯籠堂にたどりつくと、中央には「貧女の一灯」、左右には「長者の万灯」がともされています。そして、様々な説明を間くと高崎正風の心は筆をはしらせずにはおれなかったのでしょう。
この和歌の大意は、高野山奥の院に御入定された弘法大師のみ教えの灯は、遍く今古東西を余す所なく照らしているのだなあ。
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相互供養和讃
一樹の蔭の雨宿り 一河の流汲む人も いちじゅのかげのあまやどり  いちがのながれくむひとも
深き縁の法の道 歩むに遠くゆくておば hかきえにしののりのみち あゆむにとおきゆくておば
情に包む人の慈悲 供うる人も受くる身も なさけにつつむひとのじひ そなうるひともうくるみも
共に仏の御光を 受けて輝く嬉しさよ ともにほとけのみひかりを うけてかがやくうれしさよ
施主の功徳を称えつつ 御名唱えて報いなん せしゅのくどくをたたえつつ おんなとなえてむくいなん
南無大慈如来尊 南無大師遍照尊 なむだいじにょらいそん なむだいしへんじょうそん
この相互供養和讃の作者は、金剛流々祖曽我部俊雄和尚の作です。相互供養の意味するところは、平たくいいますと、「互いに助け合う」という事です。私達はこの宇宙の中で、森羅万象すべてのものが緑によってつながっている。何ものとして独立しているものはないという事です。相互供養の言葉と対の言葉は、相互礼拝です。この宇宙の曼荼羅世界は、互いに供養し礼拝し合う。すなはち、お互いに助け合い、敬い合う世界なのであります。和讃のはじめに、「一樹の蔭の雨宿り、一河の流汲む人も、深き縁の法の道」と唱えられております。思わず大雨にあい、道すがら一本の木に雨やどりをして、見ず知らずの人と肩を寄せ合う。また、顔を見た事もなければ、話をした事もない人々が、同じ河の水を使って生活している。このように私たちは、人々とどこかで深い縁によってつながっているのです。一生は永い年月のつみ重ねでありますが、決して一人の旅ではありません。多くの人々に助けられ支えられて生きているのです。助ける人も助けられる私たちも、共にみ仏の慈悲の光に照らされて、み仏の名を称えながら法恩感謝の心を捧げて行きましょう。
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